行き過ぎた差別化の行く末には【瀬上一憲】

2016.04/20

行き過ぎた差別化の行く末には

 

おはようございます。

水曜日は、青森のせのうえです。

こちらは先日日曜日にようやっと桜の開花宣言です。

 

ゴールデンウィークに咲く

というのがお約束なんだけれど、今年はプチ速であります。

 

今回のブログネタは、皆で自分を追い込んでいるという話。

では、どうぞ。

 

某小学校の先生と話をしていて。

 

小学校に上がってくる前にひらがなの書き取りとか幼稚園・保育園でやってくるのだと。

 

そして、そういう「園の演奏会とか発表会」等の場では、ポニョとかルパン三世のテーマとかそういうのをピアニカでやっちゃうんだと。

 

それが当たり前のようになっているんだとさ。

だけど、ひらがなをかけたとしても、書き順とかめちゃくちゃ。

 

楽譜は読めないけれど、色のついたテープを順番に押す訓練はできているらしいし。

 

誰が望んでそうしているのか。

 

それはもう、親だと。

 

子供たちが自らそう望んでいるものではない。

 

望まれたら、それにこたえるのが園側。

そして、前年より上を行こう。

更に、他の園でやっていないことをやろう、その上を行こうとして、園同士の競争は、エスカレートしていく。

 

 

その犠牲になるのは、園の先生たち

そして子供たち

 

保育園の先生たちも結構お見えになられますのでお話を聞くと、皆大変ですね。

 

サービス残業、当たり前。

 

自宅に縫い物系の仕事(お遊戯会とか、よさこいを踊る衣装とか)を持って帰ってきてするなんざ、日常茶飯事。

 

その結果、イイいことだらけなら別なのだけれど。

そうはなっていないんだなぁ。

 

ひらがなの書き順とかテキトー

楽譜はまったく読めません。

缶切りとか使えない。

指に力が入らない。

運動能力に問題ある子供が量産。

普通に歩けないし、すぐ転ぶ。

 

そんな子がいっぱいいる「問題児」がいっぱい入ってくるから、小学校はタイヘンなのだそうな。

 

最低限のお約束事ってありますよね。

 

そういうのが蔑ろにされて、一見派手なことだけに特化する。

 

でも、その実はないという。

 

行き過ぎた差別化という名の競争の先にあるのは、疲弊した子供と園の先生たち、そして新一年生と付き合う小学校の先生。

 

だれも幸せになってない。

 

競争は必要なんです。

でも、その方向が間違っていると途端に変な方向に偏ってしまうわけで。

 

子供たちの話を書きましたが、どうにも話を伺っていて、今の社会のひずみというか問題点に近い話を聞かされているようでね。

 

たぶん、軸がしっかりしていないからなんだろうな、と思う北国の春でした。